東京地方裁判所 平成11年(ワ)21980号 判決
原告 本村寿
右訴訟代理人弁護士 中嶋正博
同 中嶋重造
被告 須田佳子
右訴訟代理人弁護士 赤松俊武
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告は原告に対し、三〇〇万円及びこれに対する平成一一年一〇月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 原告は三五歳のプロボクサーである。
被告は、平成一〇年二月から平成一一年四月ころにかけて、東京都新宿区百人町二-二-一近藤ビル二階所在の新大久保歯科医院(以下「本件医院」という)に歯科医師として勤務していた。
2 原告は被告に対し、平成一〇年二月、痛みの激しい左上奥歯と破損部分がある前歯一本の治療を依頼した。その際、被告は原告に対し、根の治療が必要であり、歯が破損しているので被せなければならないとの説明をした。
原告は、右説明について前歯の根本部分に膿があるためこれを除去する治療をした後、前歯を補強する治療がされるものであろうと理解した。
ところが、被告は、平成一一年四月、原告が右のとおり治療を依頼した前歯以外の前歯二本を含む三本の前歯(以下「本件前歯三本」という)を削り取った。
3(一) 歯科医師は、歯科治療が緊急性に乏しい一方、歯の切除等の復元困難な身体的侵襲を伴う治療を行うことが多いから、患者に対し具体的な治療方法等を時間をかけて懇切ていねいに説明し、患者から同意を得るべき義務がある。
本件では、被告は差し歯(歯科医学上の継続歯のこと。ただし、以下には、原告の用語例に従い適宜「差し歯」と表現することがある)にする治療方針を採るのであるから、原告に対し、その治療方針、差し歯の必要性及び種類(基礎となる支台の築造方法、差し歯の材質及び強度等)につき十分に説明をする義務があった。特に、被告は歯科医師として、プロボクサーである原告の患者としての自己決定権にも十分に配慮した上で治療方針を決定すべきである。すなわち、被告は、原告がプロボクサーであることを知っており、プロボクサーにとっての歯の重要性を容易に理解できたはずであるから、原告の前歯を差し歯にするに当たり、ボクシングを行う上で差し歯でも支障がないことを含め治療内容等につきより詳しく説明し、原告の了解を得るべき義務があった。
(二) しかし、被告は原告に対し、本件前歯三本の治療について前記2のような説明しかせず、本件前歯三本を削り取ってそれを差し歯にすることを一切説明しなかったし、右治療について原告の同意を得ることもしなかった。
(三) 被告の右行為は、歯科医師としての右説明義務に反し違法であり、原告と被告との診療契約の不履行となるか又は不法行為に該当する。
4 原告は、被告の右治療行為により著しく肉体的、精神的苦痛を被り、その損害は三〇〇万円を下らない。
5 よって、原告は被告に対し、右治療契約の債務不履行又は不法行為に基づき三〇〇万円及びこれに対する訴状送達日の翌日である平成一一年一〇月一六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1の事実を認める。ただし、原告は、被告を受診した際、ボクシングを行っているほか別の仕事に従事し、これにより生計を立てている旨話していた。
2(一) 請求原因2の事実のうち、原告と被告との間に歯科診療を内容とする診療契約が成立したことは認め、その余は否認する。
(二) 原告は平成一〇年二月一七日に本件医院を受診した際、悪いところは全部治したい、前歯を治したい、短期間でまとめて健康保険の範囲内で治療したいと予診表(本件医院が来院した患者にその健康状態や診療希望を問診するための備え付け書面。以下「本件予診表」という)に記載した。被告は、原告を診察し、本件前歯三本については歯の状態から歯の歯冠部分(歯肉より上の部分)を削り取り差し歯にせざるを得ないと判断し、原告に対し歯の状況と治療方針について図示等しながら説明した上、差し歯にすることの同意を得たものであり、その後も本件前歯三本の最終的補綴物の形態としては差し歯になることを説明した。
また、原告は差し歯ではボクシングの練習をする上で著しい支障を生じると主張するが、原告のような脆弱な前歯をそのまま放置しておいたのではボクシングの競技中に破折する可能性が高くかえって危険であり、またボクサーの中には前歯を差し歯としている者も少なくない。
3 請求原因3(一)、(二)の各事実は否認し、同3(三)は争う。
歯科医師が、歯科診療に当たり、患者に対し同人の歯の状態、治療方法、治療によって得られる効果、治療せずに放置することによる影響等について説明すべき義務があることについては争わない。本件においては、被告は原告に対し前記のとおり原告の歯の状態、治療方法等を図や鏡を用いて繰り返し説明し、原告の承諾を得て治療したものであり、右説明義務に違背するところはない。
4 請求原因4の事実は否認する。
第三当裁判所の判断
一 原告が本訴において主張するのは、本件前歯三本を削り取ったことにつき、歯科医学上の観点からの右処置の要否とはかかわりなく、事前の説明及び原告の承諾を欠いたという点で違法があるというものと解される。
そこで、検討するのに、まず前記争いのない事実に証拠(甲七、乙一、二、七ないし一六、原告本人、被告本人)及び弁論の全趣旨によれば、被告の行った治療行為に至る経緯として次の事実を認めることができる。
1 原告は、飲食店の店員として稼働しながら、ボクサーの鍛錬を続けている三五歳(昭和三九年九月二〇日生)の男性である。
被告は原告が本件医院を受診した際、同医院に歯科医師として勤務していた。
2 原告は、平成一〇年二月一七日、本件医院を受診し、本件予診表に「歯・歯ぐきが痛い」、「悪いところを全部治したい」、「診療費は保険の範囲内で」等と所定の項目に記載し、患部の主訴、これを除去するための治療に関する希望等を明らかにした上で、被告の診断及び治療に臨むこととなった。
原告は本件医院来院までにもしばしば歯科治療を受けており、本件医院の初診時の際のレントゲン写真(乙二)からもそのことが顕著であり、右レントゲンによれば、中央左上の前歯が大きく欠損し、その両隣の歯には白い詰めものがしてあり、歯冠部の一部を削り取って治療をした痕跡が残されていたことが認められ、被告の診断によれば、特にその左隣の歯は歯の横と裏側は歯の無い状態となっていたほか、歯周病(歯周の清掃が悪く、抜髄、根管治療、膿瘍切開などの治療を要する)に罹患している等原告の年齢からすると相当に悪化していた。そこで、被告は、本件前歯三本については、根管治療(無髄歯及び感染根管の根管壁を器械的及び科学的によく清掃、消毒した後、薬剤を投与し、この根管の空隙を適当な材料で充填するまでの治療処置)が必要であると考え、そのためには本件前歯三本を削って、そこに支台を築造し(歯冠部分の崩壊の激しい歯を補強し、上部構造物を装着できるよう歯冠形態を回復すること)、継続歯(差し歯)にすることは避けられないと判断し、これに基づく治療方針を立て、これに従って本件前歯三本の治療を行うことにし、併せて原告に対し原告の歯の状態と被告の立てた右治療方針を模型を用い、あるいは図示するなどして説明し、右治療について原告の同意を得た。
3 被告は、平成一〇年二月二〇日、本件前歯三本につき前記の根管治療を開始した。その際、被告は原告に対し、本件前歯三本については根官治療が必要であること、最終的には差し歯になることを重ねて説明した。なお、被告が原告の診療に際して作成したカルテの平成一〇年二月二〇日の欄には「前歯は継続歯に」という治療方針が記載されている。被告は同月二七日にも原告に対し引き続き右根管治療を実施した。ところが、原告は被告から、引き続き同年三月六日に治療を受ける予定になっていたにもかかわらず、それまでの治療により痛みが消失したことから、自らの判断で右受診予約をすっぽかし、受診しなかったため、右根管治療は中途の状態で放置されたままになった。原告は、その約五か月後の同年七月三一日、更にその七か月後の平成一一年二月二六日に別の歯の痛みを訴え本件医院に来院して受診し、その際に、ようやく本件前歯三本の治療も継続して受けたが、いずれも右各受診に引き続く受診の予約をしておきながら、自己の一方的な判断で受診をせず、またしても治療中途で中断された。このような経緯のため、継続して行われることが必要であるのに右根管治療は依然として中途の状態で放置される破目になり、その間に本件前歯三本は歯質が軟化し、弱体化するなど状態が一層悪化した。被告はこの間に原告の来院の都度原告に対し、このように受診を中断し、歯の状態が悪化していくと、差し歯にすることもできなくなり、抜歯せざるを得なくなる可能性があることなどを説明し、治療を継続するよう求めた。
4 しかし、原告は再び治療の継続を怠り、初診時から約一年二か月近く経過した平成一一年三月二九日に本件医院に来院して受診したときには、本件前歯三本の状態は更に悪化していた。この際、原告は被告から差し歯の種類ないし品質について説明を受け、どのようなものにするか選択を求められたが、被告に対しお金をかけられない旨応答している。
被告は、平成一一年四月一二日、受診のため来院した原告に対し、本件前歯三本の根管治療を引き続き実施し、本件前歯三本につき悪化し、軟化していた歯冠の象牙質の部分を削り取り、差し歯にする前提として支台築造に取り掛かり、約二時間をかけてその治療を終了した。
原告は、右終了の直後、舌で前歯に触ろうとしたところ、その感触がないため鏡に映して見たところ、前歯の状態が自己の予測を超えていたことに動揺し、本件前歯三本が削られたことについて苦情を述べた。これに対し、被告は右の治療内容については初診のときからこれを原告に説明し、その同意を得ていたことである旨を指摘したが、原告は「忘れた」と返答した。
5 原告は本件医院に対し、平成一二年四月一二日分の治療費三七一〇円を支払っていない。
二1 本件前歯三本の治療に関する経緯は右のとおりであるところ、これに基づき検討を進めると、原告は、被告から差し歯にするとの十分な説明を受けることなく、本件前歯三本を削り取られたと主張し、それに沿う供述をする(甲二、七、原告本人)のであるが、被告は原告の初診時から本件前歯三本を差し歯にするとの治療方針を決定し、その旨を原告に対し説明した上で治療を開始したこと、被告は原告が本件医院でその後受診する際に折に触れて原告に対し本件前歯三本の治療につき重ねて同様の説明をしていたものであることは前記認定のとおりである。その上、原告は以前から歯の手入れが十分ではなく歯科通いが頻繁であり、本件医院における初診時の歯の状態も既に相当程度悪化していたこと、原告が当面の歯痛の消失等を理由とする自己判断で初診後治療を受けるのを何度も勝手に中断したため、その間に本件前歯三本の状態が一層悪化していったこと、そのため本件前歯三本については歯を削り、差し歯にする以外には治療方法がなくなってしまったこと、原告は初診時から約一年二か月近くを経過した平成一一年四月一二日、ようやく行われた治療の直後に被告に対し本件前歯三本が削り取られたことについて苦情を述べたが、その治療については初診時から説明していると被告から指摘された際、「忘れた」と従前の経緯にそぐわない返答をしたにとどまっていることも前記認定のとおりである。加えて、原告は自身の経験からも被告の治療行為が前歯を削り取ることを含むものであることは予測できたはずであり、これらの諸事情に照らせば、本件前歯三本を差し歯にすることについて被告が十分な説明をしていないという原告の供述は、以上の認定を覆すに足りる合理的裏付けを欠き、これを採用することはできないというべきである。
2 右のとおりであるが、前記認定のとおり歯冠を削り取られた後の本件前歯三本の外観ないし右状態の容貌が原告の予測を超えていたものと推認されるので、右の点に関する被告の説明義務の有無について付言しておく。
まず、右の歯冠部を削り取る処置は、本件の治療契約の一環として行われたものであり、右の処置が原告の歯の状態に照らして歯科医療契約上違法はもちろん、不当と認めるべき余地のないことは前記認定のとおりであるところ、本件前歯三本について歯冠部を削り取り、差し歯にする処置を採ることについて前記のとおり被告から説明があり、原告がこれを承諾したものである以上、実際に削り取る程度が具体的にどれほどのものになるのかは右治療を進めてみないと確定的には予測できないこともあると思われるのであるから、右の程度は右治療に必要な程度として担当歯科医である被告の裁量にゆだねられたものというべきであり、前記のとおり現実に本件の結果を不当な治療と認められないことも併せ考慮すると、削り取る程度が本件の結果にまで至ること自体について法的な説明義務があるものとは認められず、したがって右の点について仮に説明がなかったとしても、被告が本件前歯三本を削り取った治療行為を違法と認めることはできないというべきである。ちなみに、前記認定のとおり、原告は右の差し歯にすることの処置について被告から模型を示され、図示も交えながら説明を受けているのであるから、本件での歯冠部を削り取った前歯の状態についても説明を受けていたものと解するのが相当というべきであり、いずれにしても右の点の説明義務違反を問題とする余地はないことになる。
3 さらに、原告は、自らをプロボクサーと称し、その故に、被告には原告の自己決定権を十分に配慮し、治療内容等につきより詳しい説明をする義務があったとの主張もするが、前歯を差し歯にすることがプロボクサーを継続する上で支障となることを窺うに足りる証拠はないし(乙一五)、被告が原告に対し本件前歯三本の治療内容につき説明をしたことは前示のとおりである上、本件全証拠を精査しても、プロボクサーであることを理由に右以上のより詳しい説明をすべき義務を措定しなければならない根拠となる特段の事情が存在していたと認めるに足りる証拠はないのであるから、ブロボクサーであることに関連させた原告の右主張も理由がない。
4 すると、被告が原告に対して本件前歯三本を削り、差し歯にすることについて説明を行っていないことを前提にして、被告の歯科医師としての説明義務違反を内容とする債務不履行又は不法行為をいう原告の主張は理由がないことが明らかというべきである。
三 よって、その余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 藤村啓 裁判官 高橋譲 裁判官 餘多分宏聡)